1980年代、低迷する米国経済に向けて、ハーバード大学のロバート・キャプラン教授が考案したのが、バランス・スコアカードだ。バランス・スコアカードとは、経営のビジョンと戦略をアクション・プランに落とし込み、確実な実行によって成果をあげていくシステムである。
1997年に、キャプラン教授の著書を真っ先に翻訳し、日本にバランス・スコアカードを紹介した、横浜国立大学の吉川武男名誉教授によると、バランス・スコアカードは日本的経営に通じるものがあるという。事実、2011年に刊行した新訳版の序文で、キャプラン教授はその起源をトヨタ自動車のカイゼンやリーン生産方式などに遡ることができると述べている。
一方、マイツグループCEOの池田博義氏は、中国の現地法人でバランス・スコアカードを導入し、大きな成果を上げている。
停滞する日本経済を、バランス・スコアカードの活用で回復させることができるのか、吉川・池田両氏が語り合う。
【ビズテリア経営企画 編集部】
80年代の米国以上に深刻な日本経済
吉川 武男 (Takeo Yoshikawa)
横浜国立大学名誉教授
エジンバラ大学客員研究員
バランス・スコアカード研究会会長
専門分野
・原価計算および管理会計
研究課題
・ABCシステムおよび業績評価会計システムの理論
および実践的研究
略歴
1966年3月 青山学院大学経済学部卒業
1968年3月 青山学院大学大学院経済学研究科修士課程卒業
1972年12月 米国ウィスコンシン大学大学院経営学部卒業(MS取得)
1974年3月 青山学院大学大学院経済学研究科博士課程卒業
1986年4月 横浜国立大学経営学部教授
1990年6月 エジンバラ大学客員教授(1990年-2010年)
1997年4月 同経営学部長
2008年4月 横浜国立大学名誉教授
法政大学大学院教授(2008年-2013年)
吉川 私たちが育った時代は、前回の東京オリンピックに象徴されるような、イケイケドンドンという社会でした。それに比べると、今の日本社会は大変な状況だと思います。
1980年代の米国もまた、経済状況は深刻でした。バランス・スコアカードを開発した、ハーバード大学のロバート・キャプラン教授によると、その理由は、「大量生産の時代は過ぎ、スケールメリットを活かせなくなった」「価格破壊の進行」「顧客が他人と違うものを求める傾向」「グローバル経営という要求」「イノベーションやスピードが決め手」「将来予測の困難さ」の6つに集約できるとのことです。
私は、日本もバブル経済崩壊以降、同じ状況が続いていると思います。
池田 おっしゃる通りだと思います。例えば、グローバル経営という視点から見てみると、アベノミクスが浸透して、日本経済は株高・円安基調となってはいます。しかし、それだけで製造業が国内に回帰するとは考えられません。海外の製造拠点が台湾、韓国、マレーシアから中国に移動し、さらに人件費が安いインドネシア、ベトナム、タイに移動しています。
一方、中国の経済成長は鈍化し、年率10%以上あったものが7%台になっていますが、これは逆に中国市場が成熟したということでもあります。成熟した市場では、質の高いものが受け入れられます。ところが、日本のメーカーはこうした市場に受け入れられる海外子会社をつくることができていません。
吉川 実際には、日本の経済状況はかつての米国以上に深刻です。キャプラン教授の指摘した点だけではなく、「生産拠点の海外化にともなう国内産業の衰退」をはじめ、「環境問題」や「CSR(企業の社会的責任)」、「国際会計基準(IFRS)」などへの取組みに十分な対応ができていないという課題もあります。その上、大前研一氏は「少子高齢化」などの問題も指摘しています。
池田 しかし、日本が優れている点もあります。それは、日本人の生産性の高さです。いくら東南アジアの人件費が安いといっても、それは労働生産性を考えていない上での見解にすぎません。一方で、日本の社員はマルチタスクに対応できる、生産性の高い人材が揃っています。
吉川 おっしゃる通りです。ですから私は、人材ではなく人財と言うようにしておりますし、海外ではHuman resourceではなく、Human Assetだと表現しています。何よりも、企業は人です。また、日本の「おもてなし」が海外で評価されるのも、同じ理由です。
バランス・スコアカードの起源は日本
池田 博義 (Hiroyoshi Ikeda)
マイツグループCEO
株式会社マイツ 代表取締役社長
1948年生まれ。71年同志社大学経済学部卒業。75年公認会計士資格取得。同年、池田公認会計事務所、税理士池田博義事務所を開設。87年マイツを設立、代表取締役に就任。94年マイツ上海代表処開設、首席代表に就任。99年上海邁伊茲会計師事務所有限公司設立。その後、中国沿岸部にマイツグループの事務所を展開。
会計・税務の分野を中心として、法務コンサルティング、ビジネスプロセスアウトソーシング、経営支援、人事・労務コンサルティング、M&A・日中企業のビジネスマッチングなどを行う。
愛読書は「孫子の兵法」。
吉川 ハーバード大学のロバート・キャプラン教授によると、バランス・スコアカードの起源は、トヨタ自動車の経営革新まで遡れるということです。米国経済の危機的状況に対し、日本的経営を数値化し、経営に応用できるものとして開発されたのが、バランス・スコアカードなのです。
池田 私もそう思います。米国が日本の経済成長を見て、今までのやり方ではダメだと考えたことが、バランス・スコアカードにつながっています。
ところが、その日本では、経営者が必要以上に合理化を進め、労働者は受動的になってしまいました。
日本の経営では、合理化を進めすぎて、事業のコアとなる部分までアウトソーシングしてしまっています。自分たちの強みが分かっていないのです。本来なら内製化すべきものは内製化し、強みの部分を水平展開すべきなのです。その先に海外展開もあります。
また、強みを確認するためには、SWOT分析を行うべきなのですが、これもできていません。
一方、労働者も、適当に働いて適当に給料をもらえばいいという風潮ですが、これではダメです。労働者もまた、バランス・スコアカードを活用して自分の未来を設計していくことが必要ではないかと思います。
バランス・スコアカードの活用
吉川 バランス・スコアカードの本質というのは、例えば3年後に自分たちはどうなりたいのか、という目標をしっかり設定し、その実現に向けてビジョンと戦略をアクションに落とし込んでいくというものです。そういう意味では、カーナビに似ています。
ただし、注意すべきは、目標は「財務」の視点だけではなく、「顧客」、「業務プロセス」、「人材と変革」の全部で4つの視点から設定する必要があるということです。
池田 おっしゃる通りです。財務は氷山の一角のようなもので、これを顧客や人材、業務プロセスが水面下で支えています。
ところで、運用のポイントはどのようなものだとお考えでしょうか。
吉川 バランス・スコアカードはそもそも日本的経営に数値目標などを当てはめたものですから、明確にKPI(重要業績評価指標)を設定し、定期的にチェックしていくことが必要です。それも内容に応じて、月に1回のこともあれば、毎日ということもあるでしょう。
また、目標設定にあたっては、現場を巻き込んだものにする必要があります。これが、日本的なチームワークの良さを引き出すことになります。
したがって、バランス・スコアカードを成功させるには、現場で目標を数値化するという意識をつくり、チームワークが発揮できるようにすることが必要ですし、そこでリーダーシップが求められてきます。
池田 一般の社員もバランス・スコアカードに関与することで、自分たちの目標であるという意識も出てきますね。
吉川 そうです、こうすることにより自分の部署をどうしたいのかを考えるようになります。
バランス・スコアカードは非営利の組織でも活用できます。私はこの話をするとき、よく病院の事例をよく紹介するのですが、この場合は、顧客の視点を考える以前に、顧客が誰かを考えます。第一に患者さんですが、同時に患者さんを紹介してくれる開業医などもまた、顧客です。そして実際にお金を払う顧客は、家族、もしくは保険者である健康保険組合などです。中でも開業医も顧客であるという観点は、忘れられがちです。
また、業務プロセスの視点からみると、他の診療科のことも考えられるようになります。こうした視点から、「では自分の部署はどうあるべきか」ということを考えるのです。
経営的視点とチームワークを社員に
池田 私どもが中国に進出したのは、1993年です。その後、中国人の従業員が増えてきた2003年に、モチベーションを高める人事管理の方法として、バランス・スコアカードを導入しました。
財務をはじめ達成すべき目標をバランス良く示し、フォローアップシートも作成しました。また、上司と部下の間で達成率の確認ができるように仕組化し、互いに客観的に評価できる人事管理制度として活用できるものにもしました。社員も経営的見方ができるので、自立的に行動できるようになったと実感しています。
吉川 バランス・スコアカードを通じてそのような関係ができると、社員の会社に対する気持ちもきちんとしたものになり、会社も社員を大切に考える様になりますね。
法政大学の坂本光司教授は著書「日本でいちばん大切にしたい会社」の中で、会社は5つに対して責任があるとしています。それは、社員と家族、外注先、顧客、地域社会、そして株主です。実は、このような順で責任を持つことが日本的経営であり、バランス・スコアカードはこれを筋書きにしたものだと思います。
その点、日本の製造業が衰退してきた原因というのは、人件費の問題ではなく、人財を大切にしてこなかったからなのではないかと思います。
池田 日本の労働者の高い生産性という強みを経営者は理解していませんでした。
この強みを取り戻すには、「製造業がサービス業である」という定義の転換が必要だと思います。例えば、電子レンジという製品を作る製造だけではなく、学校などを通じてよりおいしいものを食べてもらうサービス業にしていけば、価値が上がります。
吉川 バランス・スコアカードの活用でもう一つ指摘したいのは、短期的な視野で使っても効果は出ないということです。これは、財務の視点だけで経営してはダメだということにもつながります。
中長期的な視野で、財務を含む4つの視点で経営すべきです。人財には育成が必要ですし、投資をすれば財務が落ち込みます。しかし、それが説明できれば良いのです。
池田 経営者には、目先のことだけを捉えた経営ではなく、将来を見据えた経営が、今こそ求められています。リーダーシップを発揮して、実践して頂きたいと思います。
(終わり)